桜サク G

ぼんやりと愛理が私の頬に触れた唇の感触を思い出していた。
思っていた以上に柔らかくて温かくて、そして優しい感触だった。
愛理の唇が寸前まで近づいた。だけどそれは寸前で止められた。

その場面ばかりが思い浮かんだ。

気づいてしまった。
その時に触れられたい、と思った衝動が何なのか。
触れられたい、と思う理由はただひとつしかない。

だけどまだそれを簡単に認められない。
そんなすぐに簡単に次の人、だなんて。軽いもいいとこだ。
えりへの想いはそんな簡単じゃないし、愛理への想いもそんな簡単じゃない。
心がゆらゆら揺れる。その揺れに酔って気持ち悪くなる。
だけど考える事を止められなかった。止めようと思っても思い浮かんでしまう。
自分の気持ちがわからなくて、だけど気づいてしまったその気持ちは自分の中に確実にある。

あの時触れられたところが熱を帯びて、その熱は顔全体に、そして体全体に広がる。
ぎゅっと目を閉じたら、寸前で止められた続きを見そうになる。
頭をぶんぶん振って、慌てて考えるのを止める。

コルクボードに貼られた写真を見る。
まだ1枚だけの写真。私も愛理も照れくさそうに笑ってる。
胸が痛むのは不自然だ。そう思いながらも、写真の愛理をじっと見る。
そして、その写真に唇を落とした。

その自分の行動はホントに無意識だった。
気がついて、自分自身に驚き・・・愕然とした。

私はもうすでに、愛理に恋をしているんだと思わされた。



そう認めてしまったら、あとは気持ちがただ広がっていくばかりだった。
気持ちが愛理でいっぱいになる。愛理しか見えなくなる。
恋に落ちる瞬間はこういうものなんだろうか。
わからないけど、ただ愛理でいっぱいになった気持ちはもう認めるしかなかった。
軽いと思われても仕方ない。だけどこれは本心で決して安易で簡単な想いじゃない。
愛理の事を思い浮かべたら、切なくもなり嬉しくもなるこの感情。
それは友情でもなく、同情でもない。はっきりとわかる。
心の中でずっともやもやしてたものが、急にクリアになったように。
雲の切れ間から光が差し込んで、雲ひとつない青空になったように。
はっきりとわかったこの感情は、恋という感情以外ありえない。

愛理はわかってくれるだろうか。
今まで散々つらい思いをさせた。我慢もさせたし、悲しい顔もさせた。
それでもそばにいて、私の支えになってくれた愛理は、どんなつらい思いを抱えているだろう。
もちろん、嬉しそうに笑ってる顔もたくさん見てきた。かわいくて微笑ましくて、心がやんわりと幸せになれるような、そんな表情。
だけど、今思い浮かぶのはどうしてか切なげに瞳を揺らして、苦しそうに私を求める愛理だった。
私はどうして『待っていて欲しい』なんて残酷な事を言ってしまったんだろう。
それがずっと愛理を苦しめていた事に気がついていたのに、私は愛理を求めて愛理を追い詰めていた。自分の我侭の為だけに。
そう思うと、今すぐにこの気持ちを伝えたかった。

だけど、あと少しだけ・・・待ってて欲しい。

我侭ばかりでごめんなさい。
もう少しだけ、だから・・・。待ってて欲しい。



今日はなっきぃが遊びに来る日だった。
私はいつものように公園でランニングを済ませた。今日愛理がいない事を寂しく思ったし、よかったとも思った。
シャワーを浴びて、時計を見る。まだ8時過ぎ。
なっきぃは子供だから朝早く来るだろう。
その前に、私には済ませなきゃいけない事があった。

ソファーに座って深呼吸する。そして、コルクボードに貼られた写真を見る。
えりと愛理。
それから目を閉じた。ぐらぐら揺れる事はなかった。
それを確認して、私は携帯を手に取った。

電話の相手はまだ寝ていたのか、「もしもし・・・」と寝ぼけた声が聞こえた。

「ほらー。朝だよ!」
「んぅ?舞美・・・?」
「起きて!起きて!!」
「・・・昨日夜更かししたから、もう少し寝させてー・・・。」

ホントに寝る気なのか、スースーと規則正しい音が聞こえてきた。
寝かせてあげたい。だけど今日は・・・今は・・・。

「えり、話があるんだ。」

私がそう言うと、「話・・・?」って寝ぼけた声が聞こえてきたけど、えりはいつもと違う私に気がついたんだろう。

「わかった。」

急に口調がはっきりして、電話の向こうでシーツが擦れる音がした。
私は深呼吸して、目を閉じてゆっくりとえりに告げた。



「好きな人が、できた。」



えりは黙っていた。私も黙ってしまった。
沈黙は長かったのか、それさえもわからなかった。
私達の中で沈黙なんてありえなかった。いつもギャーギャー騒いでたから。
だけどその重い沈黙は、えりの笑い声で終わりを告げた。

「ごめんごめん。沈黙とか耐えられなくって。」
「えり・・・。」

「どんな子?かわいい??」なんて勢いよくいろいろ質問されて戸惑う。
私が答えられずにいると、えりは質問をするのをやめて・・・静かになった。

「舞美が幸せだったら、私は嬉しい。今、幸せ?」
「・・・うん。幸せ。」
「そっかぁー。よかったぁー。」

電話越しでも笑ってるえりが見えた。ホントに嬉しそうに私に笑いかけてくれる、えりの顔。
その顔がホントに大好きだった。好きでたまらなかった。

「私、軽い?この前までえりを・・・好きだって・・・。」

だからこそ思う。
えりに対する想いが軽かっただなんて思って欲しくなかった。
本気で本当に、好きだった事。信じて欲しかった。

「軽いとかよくわかんないけどさー・・・。でも舞美の性格上、本気だったのも今本気なのもわかるよ。」

こういうところ、すごく好きだった。
それは私を一番に考えてくれている、という意味ではなくて。
いつもふざけてばかりで、茶化してばかりで・・・だけど、いざという時に欲しい言葉をくれるところ。
それは言葉だけじゃなくて、本心なのがわかって泣きたくなった。

「えり・・・。」
「あああ、もう泣くとかなしだよ・・・。」

電話の向こうで「困ったなぁ」って声がした。
困らせてごめんね。でも今は泣かせて欲しい。

結局私が泣き止むのを待っててくれる、えりはそういう人だ。
泣き止んだ私に「もう泣かれると困る」ってはっきり言うえりに私は笑う。
私達は一緒に歩むことは出来なかったけれど、だけど今でもやっぱり大事な人。
そして、これから先も、ずっと。

「えり、ありがとう。」
「なんでお礼?別に何もしてないよ?」

ホントに何でもないというように笑ってくれる。

大好きだった。えりが好きだった。
恋人にはなれなかったけど、えりの精一杯で私を受け止めてくれてありがとう。
大好き、でした。



あともうひとつだけ、済ませなきゃいけない事がある。
気合いを入れるように、頬を両手でパシンと叩いた。
気持ちは揺らいでない。えりの声を聞いても揺らがなかった。
あとはガーッと進むだけ。愛理に向かって進むだけ。

なっきぃとなっきぃの友達が遊びに来て、みんなを公園に連れて行った。
みんなで手を繋いで、歌を歌いながら。
空の青さが気持ちよくて心に響く。空に向かって大きく腕を広げて、空気を吸い込んで吐いた。

愛理に会いたい。

素直に純粋にそう思った。
会いたくて会いたくて、仕方ない。

私は愛理にメールをした。

<おはよう。今日は何してる?今、公園にいるんだけど来ない?>

そう打って、携帯をポケットに閉まった。
目の前では、なっきぃ達がはしゃぎながら鬼ごっこをしていた。

「よーし!次は私が鬼になろうかな。」
「やだぁ、みぃたん足早いんだもん。」
「えー。いいじゃん。私も鬼ごっこしたい。」
「じゃあ・・・いいよ。」

私が10数えてる間に散っていく子供達。
そして数え終わって手加減ナシで走る私。
ガーッどこまでも走り出したかった。どこまでも走れそうな気がした。



「待ってるの、つらくない?」

愛理が公園に来てくれて、散々遊んだ帰り道。
愛理の家の前に来たのに、私はなかなか繋いでいた手を離せずにいた。
愛理も同じ気持ちだといいなって思う。

ホントは告白するつもりだった。
だけどもうひとつだけ済ませたい事があった。
それは、愛理の気持ち。

昨日私に触れるのを止めた・・・あの時の愛理の表情を思い浮かべると、胸の奥が騒いだ。
このまま突き進んでいいはずがない。
昨日の別れ際、私は愛理が自分から離れていっちゃうんじゃないかっていう不安を抱いた。
私が想像するよりもずっと、つらい想いをしているだろう。
もう、私から離れたいってそう思われても仕方ない事をしてたんだと思った。

自分の気持ちを隠して、愛理の気持ちを聞くのはずるいというのはわかってる。
だけど、もし愛理が・・・もう離れたいって思っているなら、私のこの気持ちを告げるのをやめようと思っていた。
これ以上、苦しめたくなかった。苦しんで欲しくなかった。

愛理は少し考え込んでいた。何を考えているかはわかるようでわからない。
そして苦しげな表情で「私は舞美ちゃんが、好き。」って。
私を好きだと言うのに、そんな苦しい顔をさせるのがつらかった。
抱きしめたくて・・・手を広げようとした瞬間、私は愛理の腕に包まれて、頭を撫でられた。
それはさっきの表情とは全然違う、優しくて幸せそうな、そんなぬくもりだった。

全身の熱が上がった。愛理に触れられただけで一瞬にしてこんな風になる。
今までだってそうだった。それに気づいてたのに気づかないフリをしていた。
いつからだったかはわかんない。だけどそれがわからなくても何も問題はなかった。

「ありがとう。」

待たせてごめんね。ずっとつらい想いをさせて・・・ごめんね。
幸せにしたいって言ってくれた、私も今同じように思う。
愛理を幸せにしたい。私が幸せにしたい。そして愛理からも幸せをもらいたい。
そんな風にふたりで歩いて行けるように、願いを星空に込めた・・・。



END